伝説之倉賀野の記事一覧

皇紀二千六百年 伝説之倉賀野 (昭和十五年十一月五日発行)

編者 徳井敏治氏は、昭和八年から十六年まで倉賀野尋常小学校(現・倉賀野小学校)の校長先生をお務めでした。

その後も北支大同日本国民学校の学校長、多野群八幡村や水上町の教育長を歴任されました。先生が、誰からも慕われ尊敬されるお人柄であったことは、先生の没後に発行された『徳井敏治 追悼集』からも良くわかります。
 この『皇紀二千六百年 伝説之倉賀野』は、徳井先生が倉賀野小学校在任中の昭和十五年に「皇紀二千六百年記念事業」として倉賀野城の伝説を調査し編集されたそうです。

 

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伝説之倉賀野

一、永泉寺の古手狢(えいせんじのこてむじな)

倉賀野の町にも鉄道が敷設され、停車場さえ出来たその頃の事です。
   
 明治も初めの頃とて、今の様に田や畑があったわけでもなく、まだまだ荒地もあれば、所々には雑木林や森林までもありました。そしてこの荒地や雑木林は狐狸の住家となって、当時の人々に種々の話題を残しております。ちょうどこの頃のある夜の事です。

 

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1

二、御手洗の池(お玉ヶ池)(おてあらいのいけ おたまがいけ)

昔々、 神天皇様の御子に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、
活目入彦命(かつめいりひこのみこと)の御二方がありました。
 御二人共大変お賢い方でしたから、天皇様はどちらのお方に御位をお譲りしたらよいかわかりませんでした。
 そこで天皇様はお二人のお夢によって後継をお定めになろうとなさいました。

 

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絵

三、一本杉(いっぽんすぎ)

天下麻のごとく乱れた戦国の世も、元和な春と共に世は太平を謳歌する時代となった。
甲阪新之助は、とある旗本の嫡男に生まれた。父は旗本八萬騎の四天王の一人として多数の部下を統率する身であった。その性質は謹厳そのものの古武士、大阪夏冬の陣に其の名をうたわれた勇将にて、暇ある毎に語り聞かすは当時の武勇伝であった。新之助の生みの母は早逝した。父は後添を貰った。後添には一人の娘がいた。名を桃千代と呼び母子は新之助と晴れて夫婦になる日を楽しみにして待っていた。    
しかし

 

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杉

四、白山神社の白蛇(しろやまじんじゃのしろへび)

人は今、現在形に残っている物は、それを失うまいとしてつとめ、不幸既に失われた物に対しては、当時の人々の無知をののしったり、残念がったりしてひとしお懐かしむものである。  
 白山神社と弥栄神社とは随分前からここ南町の人達の守神として信仰を集めていたが、いよいよ飯玉様に移されることとなりとうとう実現されたのであった。神社の建物は取り壊され、大木は切り倒された。

 

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神社の絵

五、正六の薬師様(しょうろくのやくしさま)

正六は倉賀野の町から取り残された様に、町続きを離れて純朴な村人によって平和な生活が続けられております。
 この正六にお堂があって、そこに東面して一つの薬師堂があります。今は荒れ果てて堂守さえおらず、村の子供達の遊び場所となっております。この薬師様が近郷近在はおろか、遠く他国の人々の信仰を集めていた薬師様だと誰が想像出来ましょう。この薬師様は眼病に御霊験をうたわれたのです。

 

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モノクロ社

六、北向道祖神(きたむきどうそじん)

昔々、倉賀野の城が出来たそれよりも、まだずっと昔のお話です。
 御城の辺りから西烏川にかけて、昼なお暗い程に樹木が茂っておりました。その山の中に、それはそれは恐ろしい怪獣が住んでおりました。

 

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赤

七、梅の木と草鞋(うめのきとわらじ)

加賀のお殿様と言えば百萬石のそれはそれは偉いお殿様でした。この加賀様に仕えていた飛脚がありました。
 加賀の国から今の東京、即ち昔の江戸へ、又江戸から加賀の国へお殿様のお手紙を持って行って、急なお使いをするのが役でした。
 加賀から江戸迄と言うと3百キロもあります。汽車や電車、自動車といった乗物は一つもない時でした。「ほい かごほいほい かごほい。」と、言って通るお駕籠くらいが何よりの乗物でした。歩いて行けば五日も六日もかかるのが普通でした。

 

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絵

八、倉賀野城の城紋左巴(くらがのじょうのじょうもんひだりともえ)

ここ倉賀野城は、その昔、源頼朝の家臣 倉賀野三郎高俊(くらがのさぶろうたかとし)に始まってより、倉賀野城主金井淡路守(かないあわじのかみ)が小田原に討死する天正年間まで四百有余年、中仙道枢要の地として、ある時は、箕輪十五万石の縁戚となって街道筋の要鎮となったり、またある時は、彼の川中島で有名な、甲斐の武田信玄に敵して争う等、昔を偲ぶ幾多の物語があった。
しかし

 

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石碑

九、狢に取りつかれた話(むじなにとりつかれたはなし)

昔から狐や狢が、よく人にのりうつったとか、彼の人にはおさきがついているのだ等、面白いというか、不可思議というか、全く
半信半疑の言い伝えが、世の中には随分あります。
 この永泉寺にも、これに似た話があります。否話どころか、とうとうそれが為に命をとられたのだそうです

 

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寺

十、正六不動院の祈祷(しょうろくふどういんのきとう)

今から、ざっと四百年ばかり昔の事でした。
正六と言う土地の人々は、不思議な力を御持ちの不動様を信仰しておりました。人々は余りにも、あらたかな御不動様の霊験を広く世の人々にも伝えて、ともに礼拝し、御力にすがろうとして、御尊像を安置した一つの小さなお堂を建てて、祈祷所と致しました。堂守も出来ました。
礼拝は年を追って盛んになって行きました。
 ところがある時…

 

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絵

十一、弁天様の池(べんてんさまのいけ)

弁天様に池はつきものであるとかいわれている。なるほどそういわれて見れば、弁天様のある所には必ず池や沼がある様です。
そして、その池や沼には、たいがい龍や蛇に関する伝説が残されている様です。

 

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寺

十二、九右衛門火事と天狗(きゅうえもんかじとてんぐ)

「信仰には不思議な霊顕(れいけん)がつきものである」
 今は昔、安政二年春三月、倉賀野町が火災にあって、見る影もない焼野ヶ原と化した事がある。人々は、百姓九右衛門の宅が火元だというので、九右衛門火事と言い伝えている。
ちょうどお彼岸の中日。「火事だ!」と

 

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飾り

十三、馬頭観世音(永泉寺前)の由来(ばとうかんぜおん(えいせんじまえ)のゆらい)

 今を去る百五十年前、天命の頃上州倉賀野在に、徳兵衛さんというお百姓さんが住んでいました。
 徳兵衛さんは大変熱心なお百姓で、毎日毎日精を出して働きました。そしてお金がたまるのを楽しみにしていました。徳兵衛さんには只一つ欲しくてたまらないものがありました。
 それは外でもありません

 

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石碑

十四、穴池の大蛇(あないけのだいじゃ)

それはある夏の日の午後だった。うだる様な暑さに身の置場所もなく、足にまかせて訪れるともなく、とある古老の宅を尋ねた。
 老いたる身は、見るからにやせていて、この暑さでもかえって涼しい様にさえ見受けられた。
「どうです、面白いお話はありませんか。」
古老「毎々の日照りで、そればかりが苦になって話どころじゃないよ。」

 

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へび

十五、正六の浅間山(千間山)(しょうろくのせんげんやま)

伝説の国土上毛野はまた、古墳多き国である。
その昔、崇神天皇の皇子豊城入彦命は、東国を鎮めなされる為にこの毛野の原野にお降りになった。

浅間山古墳。
面積一町二,三畝、南方烏川に面し、前方の高さ二十二尺、後円部四十六尺、…

 

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木

十六、三光寺稲荷(さんこうじいなり)

その昔、三光寺様は養報寺の隠居寺でありました。
 その頃は、今のお宮より、もっともっと大きな立派なお寺であったそうです。所が、夜になると白い狐が、お寺の廊下にいたり、または人を化かしたりするので、大変困りました。そこで、町の人達はどうしたらよかろうかと毎日の様に考えていました。 

ところが…

 

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稲荷

十七、榛名入沼木部駿河守奥方の位牌(はるなにゅうしょうきべするがのかみおくがたのいはい)

倉賀野を烏川一つ隔てて南に阿久津村、この村に続いて木部村がある。今からおよそ三百五十年程前、ここに木部駿河守範虎(きべするがのかみのりとら)と言う殿様があった。そして烏川以南の地にその威勢を振っていました。

ところがちょうどこの頃…

 

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絵

十八、田子屋の獅子(たごやのしし)

「お獅子」を知っているでしょう。あの笛や太鼓に合せて身振り手振り面白く舞い狂う獅子舞は昔と言っても、明治の始め頃より田子屋にあったのだそうです。
 ちょうどその頃、大江戸を荒した恐ろしい疫病が次第に広がって、とうとうこの倉賀野の町にもおよんで来ました

 

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絵

十九、正六お堂前の墓地の由来(しょうろくおどうまえのぼちのゆらい)

正六には、浅間山を巡って伝説が少なくない。お堂前の墓地がその一つである。
 浅間山に入る田んぼ道を右に折れるとやや広い田んぼ道となる。その道のかたわらに、このお堂は、鎮座ましますのであるが、何しろ風雨にたたかれ、時に野良犬の宿ともなるこの祠(ほこら)の姿は、哀れに傷ましいものがある。

だが素朴な村人の尊心は集って、お堂であり、墓地であるこの地に、美しいものを作り上げている。このお堂前が墓地になったについて伝わる言われが面白い。…

 

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月

二十、井戸八幡(いどはちまん)

もとは木部城主に仕えていた田口次郎左衛門辰政も、今は官を退いて年久しくなりました。寄る年波に頭髪も白さを増して参りましたが、日頃心穏やかな辰政は、何の苦もなくその日を楽しんでおりました。
 

辰政は、大変神信心の厚い人でした。
ある日の事、今日も一日の仕事を終えて、鍬を肩に我が家へ来かかりました。すると…

 

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絵

二十一、水難よけの柄杓(すいなんよけのひしゃく)

佐野から烏川が倉賀野の方へ回り込むところを萬福寺と言います。その萬福寺には昔大きな寺がありました。その寺の名がいつか土地の名となったのでしょう。その萬福寺の下は烏川の水が曲り込んでとうとうと流れ、それがまた深く淀んで物凄い底知れぬ青さを湛えていました。

ここを通りかかる船は時々その波にのまれて沈みました。ところが

 

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川

二十二、太鼓橋(たいこばし)

話は徳川の昔にさかのぼる。享保三年といえば紀元二千四百六十三年で今より百三十年前の頃である。
 その頃でも倉賀野の宿は随分繁昌していたと言われている。
 エイホーエイホー駕籠が行く、道中笠の旅人の群が幾群となく過ぎて行く、こうした旅人を相手にした商売が軒を連ねて賑わっていたのである。

 

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橋

二十三、安楽寺の七佛薬師(あんらくじのしちぶつやくし)

今より凡そ千二百年程前、人皇四十五代。
聖武天皇の天平九年に、行基菩薩という大変お偉いお方がありました。この人は大変情け深いお方で、世の中を旅をしながら困った人を助け、悪い人を戒めたりして、この中仙道を歩いて参りました。

 

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絵

二十四、閻魔堂(えんまどう)

 上州のからっ風は南端の倉賀野の宿に来ても名物である。赤城颪と言うよりもむしろ浅間に近い冷たい風が、吹き初めると三日位は必ず吹き募る。たんたんとした中仙道のアスファルトを風は尚速く滑る。家々の軒を揺すり砂を捲いて風は隼の様に一本の街道を行く。その風がこの宿をぬけるところで流れる様に二本の道を描いて、右に左にまた新しい砂を捲いて走り去る。右中仙道、左日光道その追分に風に揺すぶられて立つのが冬の閻魔堂の姿である。

 

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絵

二十五、天神の松(てんじんのまつ)

世は戦国。下克上、諸国の武将互いに鎬を削り、覇を天下に示さんと太兵を擁して、人馬の動き物々しく、具足に身を固めて駆回る時であった。
 甲斐に起こり、信濃に上杉謙信と地盤を争奪した武田信玄は、四方を蚕食しその覇を我が上州にも延ばし、ジリジリと南方より神流川を渡りその先鋒は烏川を隔てた対岸の山地、根小屋に砦を築き上州経営の計を立て、隙あらばと待機していた。

 

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いし

二十六、葬頭川ばあさん(しょうずかばあさん)

「葬頭川ばあさん恐かった  狸の金玉ハ畳敷・・・・・」
 何と言うグロテスクな俗謠であろう。葬頭川ばあさんと言えば泣く子も黙ると聞いているから、余程恐いものの化身に相違ない。…

 

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絵

二十七、頭を坊主にする狢(あたまをぼうずにするむじな)

狢がよく人を化かすという話は、随分多く聞いております。
 お湯のつもりで肥溜の中へ入った話や、饅頭だと思って馬糞を美味しそうに食べていた等、随分滑稽なことです。
 「こんな馬鹿らしい話があるものか。」と、言うそばから、その人がまた狢に化かされていた等全く皮肉なものも有ります。
これに似た伝説が

 

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むじな

二十八、ちぢり山(ちぢりやま)

まむしが人をかじると言う事は聞いていたが、まむしが寄り集まって、今度は誰が誰をかじる番であると、かじる蛇とかられる人とが定まっていたと聞いては、全く驚かざるを得ない。
 相談の結果、槍玉に上げられるものこそ、いい迷惑である。誰がその相談の様子を突き止めたのか?
まむしの血祭りに上げられる者が年に幾人もあった後の事であろう。

 

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へび

二十九、塚の越(つかのこし)

 倉賀野が繁華であった頃には、この附近の村人は物の大小を問わず、よく買い物に出掛けて来たといわれます。特に町の北にあたる矢中、中居の方からは相当繁く通っていた様です。

この中に多造さんと言う大変剛胆な人がありました。…

 

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さんま

三〇、浅間山(せんげんやま)

浅間山古墳の中には金の駕籠(かご)があって、この古墳の周りを三回息をしないで廻ると、自然に、その金の駕籠が出て来て、その人の所有になる。と、…

 

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木

三一、並木(なみき)

昔、並木に天狗と称する忍術者がいて、姿を隠して、時折往来の人々をなやまし、悪事を働いていたという。最後は子供の無邪気さに術が破れて、遂に囚われの身となったと言う。
その昔の並木は随分樹木も大きくその繁みも深かったに相違ない。

 

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並木

三二、幽霊石(ゆうれいいし)

永泉寺本堂の西に、本堂と並び続いて小さな古めかしい墓石がある。

 倉賀野城最後を飾った城主金井淡路守の標である。ここには金井氏一族、家老等の墓もある様だが、一番西にある見るからに妖気を漂わして、奇怪な感をもたせるものがある。眼も口もあり、鼻さえあるが人の顔とも思われず、いつどこから見ても自分の顔ばかりをねめつけている様に思われてならない。誰いうとなしに幽霊石と言った。

 

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幽霊

三三、人とり橋(ひととりばし)

 朧月夜に見る老松には、無限の詩情があるものだが老松が女郎松などとニックネームを取って、薄気味悪い夜鳴きをしたり、うらめしやと、乱れた髪の毛を口にくわえ、痩せ細った蝋の様な手を互い違いにして、少し上目に下げられ、生臭い風を伴ってヌーットお化けの姿に変わるとなると、詩情どころか只事では済まされない。

 

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おばけ

三四、長賀寺稲荷(ちょうがじいなり)

正一位大々儀式倉山稲荷大明神(しょういちいだいだいぎしきくらやまいなりだいみょうじん)、

 随分長い厳めしい肩書きの稲荷様です。京都の伏見稲荷の総本家まで行って貰い受けて来たのだそうです。

 こんな偉い御稲荷様が、今の長賀寺山の上にあって、その昔は随分豪勢なものだったといわれます。寺は…

 

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おきつね

三五、上町一里塚(かみちょういちりづか)

その昔、主なる街道のところどころには、土饅頭の様に盛り立てられた塚を数える事ができた。その頃の旅人の、唯一の道しるべとして織田信長の頃に造られたのがこの一里塚の由来である。

 ここは倉賀野町今の上町、町を外れ様とする所に安楽寺がある。この寺を隔てる事西へ約一町、中仙道を挟んで南北に高さが一丈余、面積約二畝歩位の塚が両側に一つずつある。その塚の上には枝振りのこれは又何と美しい樅の木が枝をさしのべ、南北両側に向い合って中仙道を西へ東へ旅行く人の目標とされていた。…

 

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絵

三六、狢山(むじなやま)

倉賀野を岩鼻へ通ずる今の砂利線から中仙道へかけてのあの附近一帯は、明治その初め頃までそれは物凄い薮つづきであった。その砂利線の近くに石の戸棚と言うのがあり、その昔藤原の某(なにがし)という者がここに住居していたといわれている。
その人も何時しかいなくなってその後はいたずらに狐狸の棲家となった…

 

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家

三七、下町の庚申様(しもちょうのこうしんさま)

五穀の神、農業の神として御庚申様を祀る風習は、昔も今も変わらないが、この御庚申様を鬼門除けにしたということは、さていつ頃からの事でしょうか。
 ここ下町の御庚申様は、その昔倉賀野城の鬼門除けに立てられたものだという、そして多くは南面しているのに、こればかりは北向きになっている。

 

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像

三八、八幡裏の大蛇と小蛇(はちまんうらのだいじゃとこへび)

何十年か前のこと、八幡裏に大蛇が出ると言う奇怪な言い伝えがあった。しかもその大蛇を見ると必ず大病をするか、あるいは運悪い人は死んでしまう等、不思議な伝説である。

この大蛇には、幾匹かの子蛇がいて、その蛇が時々八幡境内に遊びに出て来るという。しかしはっきりと見た者は無いらしい。時々子蛇の抜け殻を持って来て置くと、その家は次第次第に繁盛して…

 

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へび

三九、貉の清さん(むじなのせいさん)

今から百年も前の事だったでしょうか?

 町の南の方に大変頭の禿げたお爺さんがおりました。よく頭の禿げた人の事を子供は薬缶頭(やかんあたま)等といいますが、ちょうどこの頃は家々の燈火がランプだったので、このお爺さんの事を、ランプ頭ランプ頭と悪口を言っていたのだそうです。

 

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火

四十、養報寺の七沸薬師(ようほうじのしちぶつやくし)

古い事においてはこれ程古い薬師様が他にあろうかと思わせる程、苔むし、ひび割れのした古めかしい薬師様が、ここ養報寺の七佛薬師様です。
 倉賀野町の下の方に薬師堂という地名があります。そこに何百年も前から安置されて、眼病一切に御利益あるとして、大衆の信仰を集めていたが、明治の初め頃、今の長賀寺山に移されたのである。
それからしばらくここにあったが、…

 

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寺