八、倉賀野城の城紋左巴

石碑

ここ倉賀野城は、その昔、源頼朝の家臣 倉賀野三郎高俊(くらがのさぶろうたかとし)に始まってより、倉賀野城主金井淡路守(かないあわじのかみ)が小田原に討死する天正年間まで四百有余年、中仙道枢要の地として、ある時は、箕輪十五万石の縁戚となって街道筋の要鎮となったり、またある時は、彼の川中島で有名な、甲斐の武田信玄に敵して争う等、昔を偲ぶ幾多の物語があった。
しかし、その物語を抱擁し育てて来た城も今は既になく、殊にここ二,三年の前より殷賑産業の影響を受けて、城址は全く一変してしまった。
 草木の茂みは片付けられ、土は昔ながらの香を陽に発散するがごとく一鍬一鍬掘り返され、そして平坦になって行った。
 間もなくこの土地に縁ある人によって、大工場が建設され、鉄板に打込むハンマーの音、黒く油じみた歯車のきしる音、電気溶接の不思議な光線や騒音等、文化的な息吹に組み伏せられてしまった。
 倉賀野三郎高俊は勿論のこと、城主金井淡路守もまたその当時の人々も、誰一人としてこの居城がかくなる事を夢見たであろうか。
 ああ!栄枯盛衰は世の習とか、今城址に立って昔を偲ぶ時、誰か感慨を禁じ得よう。

 不思議な事に、どこの城にも何かしら言伝えが残されているものである。今は跡形さえ殆どないが、ここ倉賀野の城にもまた不思議な伝説がある。
 倉賀野城の城紋についてである。
 倉賀野の城門、即ち表門には「五七の桐」の紋があった。その「五七の桐」の紋が、裏門の紋と代わり、表門へは新たに井桁の中へ左巴の紋を配したものが取付けられるに至ったとのことである。
 さてこの物語は、倉賀野城が次第に衰運の一路を辿っていた頃の事である。
 ある日の夕方、城主は一時の慰みにと、家老を召され、城中奥の間で囲碁を始められた。互いに碁盤を凝視しながら黒白の争いが続けられた。

絵

一局、二局、夜の更けるのも知らないで打ちに打ったことでしょう。然し、どうとたことか、その夜に限って御殿様は一局も勝てませんでした。あせればあせる程乱れていくばかりでした。
 「どうもよくない・・・・・・」
 「こんな筈はないが・・・・・・」
 「残念だ!よし今度こそは」
 といきり立つた殿は、暫く家老の顔を見すえていたが、「ようしッ」と、乗り出すように、はつしとばかり盤上に石を置いた。軽く受け流した家老は、勝利に誇る色も包みきれず、微笑さえ浮かべてなんら動ずる様子もなかった。
 
言葉にこそ出さないが、殿の一挙一動には恐ろしい殺気が漲っていた。その殺気を帯びたまま盤面は次第に進んで行った。
 引き締まった口元、鋭い両眼・・・・・・
 これは殿の必勝を目標す異常の緊張を物語るものであった。かくて初盤も過ぎ、中盤に入った。
 今度こそは好調!これは殿の胸裡深くにひめられた喜びの声だった。
 いよいよ終盤、誰が見ても殿様の勝利に疑いがない。
今まで勝誇っていた家老の面にも、漸く動揺の色が濃くなってきた。大奥は、今こそ嵐の前の静けさそのものであった。好調に気を好くした殿、苦境打開に全知全能を傾ける家老、勝敗の常とは言え随分大きな距たりであった。この距たりを何回も繰り返しては苦悩をなめて来た殿だけに、今の喜びは大きかったに相違ない。終局もいよいよ数刻に迫った。必死の家老は防戦よく努めたが、敗勢は如何とも致し方がなかった。家老はここで最後の長考にふけった。


「いくら考えても同じ事、もうこれより仕方がない。」
苦悩十数分、やがて一石が落す様に置かれた。
 何の躊躇ぞ!と、いわんばかりに殿も続いておく。
 「おや意外なところへ。」家老は目を見張った。そしてすくいあげる様に殿の顔を見上げたが、勝利に誇る殿には何等の反省もなかった。誇る者の大なる失着であった。家老は、この機を逸してなるものかと、一際大きく音をたてて大事な一石が下された。
これこそ命取りの一石であった。
 愕然!色を失った殿は、口もおどろもどろに「暫く暫く。」とその石をおさえた。指先は大きく震えていた。
 しかし待てない一石である。待てば敗れることに決っている。
 「待てば負けるではないか、戦場に待てはない。」と、いわんばかりの家老であった。

刀

殿の眼尻は次第につり上り、無念の口元は小刻みに動いた。
盤上にあった殿の手は静かに両脇に戻されてきた。そして側にあった大刀を取るが早いか「無礼者!」と、大喝一声、その瞬間!
 大奥の静けさは破れた。そして家老の首は胴と離れて盤上に坐った。
 何と不思議ではないか。盤上の首はしっかと殿を睨んだまま、眼を大きく開いているではないか・・・・。妖怪! 妖怪!
 血なまぐさい不気味なうちに、肩でする様に大きな呼吸が幾回も続いた。
大奥に起こる夜更けの物音に驚いて駆け付けた時は、盤上の首に食入る様に見つめていた放心状態の殿を発見したのであった。殿は驚きと恐ろしさとにおどおどするばかりだった。間もなく殿は体中の総ての力で跳び離れた。そして、「この首を余の刀と共に煮殺せ。」と、命じた。お付の者は恐る恐る命ぜらるるままに準備した。大きな釜が用意され、釜番人さえ出来た。そしてその夜は到々煮明かした。

 明くる朝になって蓋を取って見ると、何と一夜中煮明かした首である筈のものが、少しも変わることなく、前にも増した形相をしているのである。このことを聞いた殿は、七日七夜の間、熱湯で煮殺す様にと更に厳命したのであった。それからは前よりもどんどん火を焚いて、全く七日七夜生首と刀とを煮尽したのであった。今度こそ大丈夫であろう。いかに剛の者でも何の事はあるまい。そこで役人立会の上、いよいよ蓋を取って見ることにした。釜番の一人が大きな蓋を抱える様に取った。その一瞬!首と共に煮られていた刀が飛び出してきて、この釜番の首を切落した。そして刀は元の釜に入った。同時に切られた釜番の首もまたこの中へ入ってしまったと言うのである。並居る一同は色を失った。言葉一つ出ない。しかし、この恐怖にも増して一同の驚いたのは、七日七夜煮続けて来た彼の首が、前と少しも変わっていないことであった。そして、今跳び込んだ釜番の生首を追いかけているではないか。ぐらぐらと煮返る湯の中とは言え、二つの生首が、この釜の中で追いつ追われつしているのである。しも左巴に廻ってかいる。何時までたっても容易に納まりそうもありません。流石の殿様もこれには施す術もなかった。

 「ああ悪かった。許してくれ。」
 殿様は始めて後悔と懺悔とをした。そして釜の端に手をかけ顔を突込む様にして、何回も何回も詫びたのであった。すると不思議や、今迄のあの恐ろしい形相は微笑にかわり、左巴になって追いつ追われつしていた二つの首は、何時の間にか納まっていた。
 「あまりと言えば不思議なことだ、これも皆余の仕打ちが悪かったからだ。」とて、殿様は大変恥じたという事である。この時左巴になって首が廻っていたところから、亡者の供養を兼ね、その霊を迷路から救い、今後の戒めにもとて、今迄表門にあった倉賀野城五七の桐の城紋を、取りはずして裏門へ移し女の紋所とした。そして表門へは「左巴」の紋章を配して城紋としたと言うことである。

 今。五七の桐の紋は永泉寺に残されてあるが、左巴の紋章はこの辺に見当らないのが惜しい。

石文
川
古地図
現地図