十九、正六お堂前の墓地の由来

正六には、浅間山を巡って伝説が少なくない。お堂前の墓地がその一つである。
浅間山に入る田んぼ道を右に折れるとやや広い田んぼ道となる。その道のかたわらに、このお堂は、鎮座ましますのであるが、何しろ風雨にたたかれ、時に野良犬の宿ともなるこの祠(ほこら)の姿は、哀れに傷ましいものがある。屋根、扉、濡れ縁、柱、その一つ一つがすべて値打ちのある骨董品である。だが素朴な村人の尊心は集って、お堂であり、墓地であるこの地に、美しいものを作り上げている。このお堂前が墓地になったについて伝わる言われが面白い。

月

浅間山はもと村人の共有地であった。
南方からこの山に入る道は、また墓地への道でもあった。
 当時この村人の亡骸は皆、ここに葬られる事になっていたのであった。道を挟んで両側に立ち並ぶ墓石は皆、村人のそれであった。
尚この辺りは、薮あり、谷あり、繁みあり、荒涼さながらの原野であった。暗夜には狼が出たとさえ言われるのである。
 

しかも飢えた狼の群は、埋めた村人の死骸を掘り出してしまい。困り果てた村人の衆議は一決して、墓地の移転という事になった。こうして墓地は現在のお堂前に移されたのであった。
だがその後も引続き村人の間には、悪事奇怪事が絶えないので、再び相談の結果は、村人共有のこの山を、他へ渡してしまうという事になって、山は永泉寺へ納められたのである。
 お堂の真っ直ぐ裏、東向きに、高さ七、八尺幅三尺ばかり、自然石を利用した碑の様なものが立っているのが見られる。正面にまわれば石を刻んだ「御嶽座王大権現(おんたけざおうたいごんげん)」と言う文字が見られる。このものの、得もいわれぬ不思議な力強さに心引かれて、道行く人は、皆この前に足を止めてから行く。

木

伝え聞く所によれば、この碑は、慶應四年正月吉日、浅間山の頂にある1本の樅の木の根元に建てられたものであると言う事である。
 再び墓地の物語にかえる。
 奇怪な山の所有権を、寺に納めてからの村人は幸福でありました。だが一旦抱いた村人の恐怖心を一掃するには未だ一つ、仕事が残っていた。祟りを恐れる村人は、この大きな石の塊をも、お堂裏に移してしまったのであった。それから村は、全く平穏になったという。事の真偽は問わず、奇しき言われは今に尚お堂前の苔むす墓石に残って、世の人の好奇心をそそっている。

古地図
現地図