二十四、閻魔堂

上州のからっ風は南端の倉賀野の宿に来ても名物である。赤城颪と言うよりもむしろ浅間に近い冷たい風が、吹き初めると三日位は必ず吹き募る。たんたんとした中仙道のアスファルトを風は尚速く滑る。家々の軒を揺すり砂を捲いて風は隼の様に一本の街道を行く。その風がこの宿をぬけるところで流れる様に二本の道を描いて、右に左にまた新しい砂を捲いて走り去る。右中仙道、左日光道その追分に風に揺すぶられて立つのが冬の閻魔堂の姿である。明治の末頃まではお作さんと言う尼さんが留守をしていたと言うこの御堂も今は堂守さえもいない。

絵

ほの暗い堂扉の中には微かな佛像の御姿と、思いがけなく人目をひく紙の白さがある、それをよく見れば一体の仏像の御手にする閻魔帳の白さなのである。神秘を包む御堂である。御堂の左手に一基の常夜燈が建っている。その前の道標にもその常夜燈にも達筆に書かれている様に、ここが中仙道と日光道との分岐点になっているのである。行燈の灯もちらほらと細い場末の追分に常夜を照らすこの御燈は、さらてだに昔の姿を思わせる。昔もまたその昔もどれだけの人々が有明の旅、無明の旅にその御光に浮び上っては消えまた去った事であろう。

 夢見る様な追憶もまた懐かしいものである。その台石の四面には文化年間だと言われるこの建立の関係者の芳名が、数え尽くせない程彫刻されてある。名を知られた人も数多くあるとの事である。
 裏面には江戸大相撲一行の名も見える。当時大相撲がよく興行されて賑い、特に横綱名力士雷電為右衛門等の尊信を集めた等の伝説をうなずかせるものがある。

 夏は八月十六日が縁日である。古文書に「閻魔王の御利益效顕著しくその名、近郷数里に轟き善男善女の参拝するものくびすを接す。」と、見えている様に、現今になっても夏の宵に打連れて参拝する人は道を埋め堂を埋める。現在この堂宇は九品寺の所有であって御本尊は阿弥陀如来なので阿弥陀堂と言うのだそうだが、何時とはなしに人呼んで閻魔堂といっている。その由来は文献古老の言をかりても知る由もないのであるが、その昔死刑囚の首をさらし首にしてここに立て、その亡霊を慰める為に堂を建立したのではないかと言われている。
 堂の西側にある常夜燈は、日光までにある五つの中の最初の常夜燈であると。

寺
石
古地図
現地図