十五、正六の浅間山

木

伝説の国土上毛野はまた、古墳多き国である。
 その昔、崇神天皇の皇子豊城入彦命は、東国を鎮めなされる為にこの毛野の原野にお降りになった。
 大和朝廷東方発展の根拠地 毛野の国(けぬのくに)は、また当代文化の中心地であった。古墳の国上毛野。
 国一帯に散在する数多い古墳の姿は、文化史上に燦として輝く、古代毛野文化の名残りである。
 古墳文化の発達はここ倉賀野の町にも名残を留め、この辺り、浅間山、大鶴巻、小鶴巻等、合して一大古墳群を成している。
 町を西に出外れて約五町、中仙道を左に折れる細い田んぼ道をたどれば浅間山にわけ入る事が出来る。
 
浅間山古墳。
 面積一町二,三畝、南方烏川に面し、前方の高さ二十二尺、後円部四十六尺、全長約五百八十尺に及ぶ、規模雄大な前方後円の状態もそのまま、封土は二段、水田に変った周囲に猶来の名残がうかがわれ、発掘の形跡をも見られぬこの古墳の姿は、まことに美しく、得難い尊さを持っているのである。


 遠望針坊主を思わせた山肌も、眼の当たりに見る時、それは優しい新緑の山であった。前方部は開墾されて畑地となっているが、大部分は雑草に混じって小笹が族生し、後円部の頂は松、樅を囲んだクヌギの林である。分け入って切り株に腰を下せば、足元に、赤い柑子、りんどうの紫も慎ましく、思いはしばし上古の昔を駆けめぐる。だが伝わらざりし言い伝えは、世の人に様々な寂かな追懐の自由を許して存するのみ、その時代つまびらかならず、葬られし人の名も定かならずこの古墳の姿にして、それはまことに惜しい事であった。

 だが古墳発掘について、この辺りの人の口に端にのぼる言い伝えは興味深いものがある。

絵

何でも沢山の宝物が埋まっているそうで、それを掘った人は目が潰れ、片輪になり、または病死するのだそうです。それで今はもう誰も掘ろうとする者はおらない。」と言う事である。
 古墳は神秘である。
 だが時の流れは、この古墳史の上にも、やや確かな言い伝えを残して行く事を忘れなかった。
 
 新田氏と浅間山、この二者の縁は、この地を巡って、名残の跡を留めているのである。
 「藤島の一戦は、悲運新田氏一族の滅亡となった。その義貞の伯母なる正六位尼僧某がこの地に来たりてこの古墳の低い事を思い周囲より土を採って盛り上げ、一層高さを増し、頂に庵を立て、住居せしとか。この辺を正六と言うも、それにちなみたるであろう?」
 縁は奇しきものである。
 新田氏の名残を探ねつつ田んぼを中仙道に戻る。再び町に向えば右下正六に通ずる道のかたわらに一の橋があって、「姥が橋(うばがはし)」と言います。姥は伯母より転じたものであろうか。ここにも、新田氏とこの地の縁深きを思われ、敢えて虚言とのみは思われないのである。
 
 千間山を浅間山とも書く、その語源についても伝え言う所がある。
 その形富士山に似たるに依り富士浅間といい、後世これを単に千間山と呼び馴らして今日に至ったのである。その当時倉賀野は、付近に人家多くしてこの郷の源であると言われ、後世今の倉賀野の位置へ発展したものである。
 更に伝う。
 山頂に千間社と言う神社を祀りましたが、明治十三年、倉賀野神社境内に移転し、浅を千と呼び変更したるもその為なのでしょうか?
      
 古墳浅間山を巡る、数多い人の言伝えは、こうして今になお残って、この辺りに鍬取る人の口から口へと語りついでいるのである。否更に語りついで行かれる事であろう。
 正六の浅間山。
 奇しく、美しき、古墳千間山は、倉賀野の誇りであり、上毛野の誇りである。

古地図
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