二十三、安楽寺の七佛薬師

今より凡そ千二百年程前、人皇四十五代。
 聖武天皇の天平九年に、行基菩薩という大変お偉いお方がありました。この人は大変情け深いお方で、世の中を旅をしながら困った人を助け、悪い人を戒めたりして、この中仙道を歩いて参りました。

ちょうどこの町の安楽寺前まで来た時は、日はとっぷりと暮れ、それに雨さえ降って参りましたので、宿を尋ねたがそれらしい家も無く、さあ如何しようとお考えになりました末、ちょうど折よくそこに薬師の岩屋がありましたので、その中で一夜を過ごそうとなさいました。

 穴の中へ入って休んでいて急に仏像を彫る事を思い立ち、一心に刻みました。

絵

そして一夜の中に七体を刻み上げ、八体目に取り掛かろうとしますと、東の空が静かに明けて参りました。行基菩薩は仕方無しに、七体と後半分の像をお残しになって、東の空が美しく染めかけた頃、又旅立って仕舞いました。

 「又一説に、行基菩薩様は巳の年生れであったので、蛇になって今でも穴の中に住んでいるとの事です。」
今も尚薬師の岩屋には昔を偲びつつ行基菩薩の御徳を讃えて、七体の御像が飾られて有ります。

石

そして十三年目毎に、その薬師の岩屋を、お開きになって、盛大な催しが行われますが、今よりおよそ百五十年程前の事、十三年目毎に来る御開帳をどうした訳か、延ばした事がありました。その年には倉賀野の人々にチフスや赤痢等が流行して非常に困りました。こうした病気のために町の人々が尊い命を失って行きました。
この当時、安楽寺に和尚さんをしておられた方は、「火の病」と言う病気になって、もう体中が焼ける様に痛くなって苦しみもがきました。側に付いていた人達も手の下し様もなく、もうこれまでと思い、どうせなき命ならばと、水をどんどん汲んで来て、苦しみもがく和尚さんの身体にかけました。けれど幾らかけても元の様にはなりませんでした。そして到々この世を去って行かれました。
 又倉賀野の人々もそれが為、沢山亡くなって行ったといわれております。
 「是は不思議な事だ。」「一体、何の祟りであろう。」

 と、漸く人々も真剣に考える様になりました。

その中に誰いうとなしに「これは十三年目毎に開く薬師の岩屋の御開帳を延ばした為ではないかなァ・・いやそれに相違ない」
といわれる様になりました。これには誰一人として返す言葉を持ちませんでした。
すると和尚様は、「あゝそうでしょう。そんな事をしてはいけない事だ。」と、いって、それからは少しも延ばす事なく十三年目毎に御開帳を行っているという事です。

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